言葉というのは時とともに変化するというのも事実だ。変化するからこそ、もとの形を残したい、残さないのは日本語の乱れだと考える一方、場合によっては、その言い方はもう古いというような感想になることもある。言葉は生きているのだ。 高校生の作文コンクール(竞赛)の審査員をしていた時のこと、ある都市の課題で、「百聞と一見」というのがあった。「百聞は一見に如かず」という諺を踏まえて(根据)、そのどっちがいいのか、という課題だ。ところが、そのテーマに対して、高校生の多くが、視覚情報と聴覚情報はどっちが確かか、という論考をするので驚いてしまった。テレビより、ラジオのほうが真実が伝わったりする、なんていう論だ 違うんだけど、と私は思った。聞くというのは、人に聞くことであり、伝聞なのだ。そして、見るというのは、自分がその目で見ること。つまり、あの謎は伝聞よりも実体験のほうがよく分かる、ということを言っているのである。テレビで戦争の様子を見るのは、むしろ百闻のほうであり、その戦地へ実際に行ってみるのが、一见である。 しかし、テレビのない時代の諺には、テレビで見ることなどはあるはずがない。高校生たちはそこまでは考えられていなくて、ただ目か耳か、という話になってしまうのも無理はない。こうして、諺の意味もニュアンス(细微差异)が変わってしまうのだ。71.文中に「言葉は生きているのだ」とあるが、なぜそう言うか。 大佬们顺便看看我的翻译有没有要修改的

