http://entertainment.rakuten.co.jp/special/smap/vol101/2015.6.19更新现在は、过去と未来のまだら色——『アイムホーム』のために。
家路久様 「それって大事ですか?」
先生が、そう言ったとき、ハッとした。そうだ、そうなんだ、ぼくたちは、いつだって、ほんとうに大事なものとは别なものを大事にしている。
いまは、メモすることで过去になる。けれども、过去になってしまったいまは、未来への赠りものだ。
メモに书かれていることが大事なんじゃない。メモに书き留めようとしたいまそのとき、いまでは过去になってしまった、かつていまだったそのときが大事なんだ。だって、そのいまは、未来に捧げられているから。未来の自分のためにメモをした、そのときの自分が大事なんだ。书かれていることが大事なんじゃない。书かれてしまったことは全部过去にすぎない。书こうとしたこと。そのことが大事なんだ。书こうとしたのは、これからも生きようとしていたから。これからを生きようとしていたから。无意识にでも未来に向かっていたから。もう、それだけで、エブリシングオッケーだ。
木村拓哉さんは、きみを全身で肯定した。きみを全力で肯定した。それが彼のやり方だからだ。これまでもそうだったし、これからもそれは変わらない。彼は、きみの瞳に仮面が映っていても、きみが键で开けたくないものを开けてしまっても、きみを肯定した。きみのいまを肯定した。
演じる者は、演じられる相手——きみのことだ——のいましか肯定することができない。回想场面は过去ではない。映像によって过去という魔法をかけられているにすぎない。それは、いまなんだ。あるひとの、たとえば一年前という时制を与えられたいまを、俳优は演じる。全部、いまなんだ。役者は、いまを演じることしかできない。だから、彼はいまを肯定する。全身で肯定する。全力で肯定する。
7话以降、木村拓哉さんの、きみの演じ方が変化したように思った。豹変したわけではない。いきなり、过去のきみに戻ったわけじゃない。人间は多面体だ。オセロの驹のように白が黒にひっくり返ったりはしない。そして、それはグラデーションでもなかった。过去のきみと、いまのきみとの中间地点で、ゆらぎながら、浓淡をつけながら、中间色で体现していたわけでもなかった。
それは、まだら色なのだと思った。ぼくには、木村拓哉さんが表现したきみが、まだら色に见えた。过去のきみと、いまのきみとが、まだらになっているわけではなく、过去のきみと、未来のきみとが、まだらになっている。それが、いまのきみなんだ。ぼくには、そんなふうに见えた。最终话で、初めて、そのことに気づいた。
木村拓哉さんは、まだ见ぬ未来のきみを描いていた。过去のきみと同じように大事に描いていた。そうだ。过去のきみは决して否定されてはいなかった。だから、最后の最后、过去のきみと、いまのきみとは、话すことができた。だから、过去のきみは、きみのメモ帐を燃やすことができた。メモは、さっきも言ったように、全部过去だからね。过去を燃やし去ることができるのは、过去のきみだけだった。
逆の言い方もできる。木村拓哉さんは、过去のきみを肯定していたからこそ、未来のきみも描き出すことができた。木村拓哉さんは、きみを否定しなかった。どんなときも、きみを否定しなかった。过去のきみも、いまのきみも、同じように、価値がある。それを信じて、演じていた。だから、ほんとうは、目には见えないはずの未来のきみを描き出すことができた。
きみは、过去を受け入れた。それが、どんなに、认めたくないものであったとしても、それが、どんなに、憎むべきものであったとしても、过去がなければ、いまはない。どんな过去も、肯定されるために存在している。
きみは、过去を受け入れた。过去を受け入れなければ、未来は访れない。木村拓哉さんは、受け入れるべき过去として、过去のきみを演じていた。きみが、いまを生きるために、そうしていた。そして、きみが、いまを生きるために、未来のきみを描いていた。
いま、この现在は、过去と未来のまだら色だ。过去を认めるのも、未来をおそれないのも、いまのきみにしかできないことだ。それができたとき、初めて、过去のきみも、未来のきみも、きみになる。
ありがとう。きみに逢えてよかった。
相田冬二
追伸。
ぼくは、过去のきみが好きだよ。过去のきみを爱していた女性たちに负けないくらいにね。
※このコラムは、楽天エンタメナビのオリジナル企画です。